「房州」とは千葉県の房州半島南部です
明治の廃藩置県まで、房総半島南部を「安房国」といいました。その一字をとって呼んだ別称が「房州」で、中世以来「関東」の名がおこり、小田原北条氏の頃に起こったといわれる「武州(武蔵国)」や「上州(上野国)」などと同じく、関八州のひとつの呼称です。最近では、房総と同じ意味で「房州」ともいいます。
「房州うちわ」作りの始まり
関東でうちわ作りが始まったのは、江戸時代(天明年間・1781~1788年)。当時、房州は、材料の竹を送り出す産地でした。「地方資料小鑑」(明治44年千葉県発行)によれば、房州でのうちわ生産は、明治10年に那古町(現在の館山市那古)に始まり、付近の町村に普及したとされます。「房総町村と人物」(大正7年千葉県発行)では、明治十七年に、岩城惣五郎(那古町)が東京から職工を雇い、生産を始め、安房郡の一大物産としたとされています。
生産拡大へ
大正12年の関東大震災で、日本橋堀江町河岸のうちわ問屋の大半が大火に見舞われました。震災後、竹の産地に近く、東京への船便があった那古港にも近接した船形町(現在の館山市船形)に問屋が移住し、生産を始めました。そのことがきっかけとなり、房州でのうちわ生産が拡大していきました。そして、日本三大うちわと言われる「房州うちわ」の産地となっていきます。
「おかみさんたちの手内職」として
那古、船形、富浦(現在の南房総市富浦町)は古くからの漁師町で、働きざかりの男たちが漁に出たあと、留守番のおかみさんたちの手内職として、うちわづくりは歓迎されました。母から娘にその技術が受け継がれ、大正末期から昭和の初めにかけては、年間7~800万本もの「房州うちわ」が生産されるようになりました。内職として携わる人は、1,000人ほどいたそうです。
国の伝統的工芸品に
扇風機、エアコンなどの電化製品やガスコンロなどが普及し、実用品としてのうちわは使われなくなっていき、平成中頃には年間2~30万本にまで生産が減少しました。こうした中、平成15年に千葉県で最初の経済産業大臣指定伝統的工芸品として認定され、「房州うちわ」は新しい魅力に置きかえられようとしています。
職人の高齢化と後継者不足などの課題もあります。
現在の房州うちわ
基本形は、丸型、卵型、柄長、大型。他に、特注デザインのうちわも作られます。
表紙の素材には、和紙以外に布生地なども使われています。
丸型うちわ
表紙には個性豊かないろいろなデザインが施されます。
卵型うちわ
卵のようななめらかな曲線をもつうちわです。
柄長うちわ
柄が長いので、両手のひらでくるくると回しながら風を楽しめます。
大型うちわ
約30センチくらいの大きさで、和紙やしぼりなどを表紙に使っています。
特注デザイン
装飾品として、幅の広い楕円型のうちわも作られます。